初めての日本代表、初めてのゴール、初めてタイトルを獲ったクラブチーム…日本のブラインドサッカーの歴史に名を残した人たちがいる。ここでは、多くの先駆者のなかから、「晴眼プレーヤー」「パラリンピックのピッチに立った審判員」を紹介したい。
【南祐之】公式戦でゴールを決めた! 初の晴眼プレーヤー
視覚障がい者のためのサッカーとして普及が進んだブラサカ。今では健常者でもアイマスクをすればともに楽しむことができるスポーツとして普及した。その走りといえるのが、2008年に始まった「ワンデイカップ」。 普段は選手の練習を支えるスタッフがフィールドに立った。
その時代、リーグ戦で活躍し、関東リーグのポスターも飾った男がいる。南祐之。愛称ナンシー。かつてウォーリアーズ(松戸)と埼玉T.Wingsでプレーした、元祖晴眼プレーヤー だ。
当時、視覚障がい者向けの機器を取り扱う会社に勤めていた南は、顧客を通してブラインドスポーツについて見聞きするようになり、目隠しして行う、このサッカーに出会った。
「もともとサッカーをやっていたこともあり、試合を見に行った後、ウォーリアーズの練習に足を運ぶようになりました。最初はなにか役に立ちたいという気持ちだけでしたが、人手不足でしたし、そのうちGKをやるようになって。その後、アイマスクを初めて着けてプレーしたのは、葭原滋男選手に勧められたから。葭原選手が主催する都立青山公園の練習会で、晴眼プレーヤーとしての一歩を踏み出しました」
目隠ししてドリブルをしたりパスをトラップしたりする基礎練習を行った後、先述のワンデイカップでフィールドプレーヤーとしてデビューを果たした。
「経験を積み重ねていったら、ある日、周りの状況が『見えた』と感じた瞬間がありました。もちろんアイマスクをしているから見えないんですけど…。ここから面白さが倍増しましたね」
その後、移籍した埼玉T.Wingsでは、関東リーグ、日本選手権に出場した。
「当初は怖かったトップ選手のスピードにも慣れていきました。でも、ボールスローからのトラップをすることができずに歯がゆさを感じていた時期も長かった。できるようになるまで、何年かかかりましたね」
障がい者スポーツの選手を語るとき「見えていないのにすごい」とよく言う。だが、南はそうは思わない。「見えない人」と「見える人」の間に特別な壁はないと考えるからだ。
「日常生活の手助けをすることはあっても、ピッチ上では彼らに敵わない。むしろ助けてもらっていました」
ブラサカに夢中だった日々を振り返り、「あのときは、『見える人でもできるんだ』というのを証明したくて頑張っていたんです」と熱っぽく語った。
近年では、晴眼プレーヤーを擁するクラブチームが大多数を占める。現在は整体師となり、治療院の経営に大忙しの南は、ときどきブラサカのニュースをチェックし、その活躍をうれしく思っているそうだ。
埼玉T.Wingsで日本選手権に出場した南(写真左)。晴眼プレーヤーの先駆けだ
【井口健司】初めてパラリンピックのピッチに立った“日本代表”
2007年。翌年の北京パラリンピック予選を兼ねて行われたアジア選手権(韓国)で男子日本代表は4位に終わり、4年越しの夢だった北京パラリンピックの出場権を逃した。そのアジア選手権で決勝の笛を吹き、北京への道をつないだ日本のレフェリーがいる。日本初の国際審判員、井口健司だ。
「視覚障がいのある選手がスピーディに走り回ってゴールを目指す。それだけでこの競技は魅力的だと思うのですが、ブラサカを通じて視覚障がい者も健常者も当たり前に混ざり合う社会を実現するJBFAの理念のように、ブラサカではさまざまな国のレフェリーが混ざり合い、一緒に大会を走り抜く。それはすごく面白いことだと感じていました」
黎明期からJBFAに関わっていた井口は、代表の強化、大会事業などに携わってきた。2005年のアジア選手権(ベトナム)で初めて笛を吹き、2006年の世界選手権(アルゼンチン)で世界のレフェリーたちに魅了されると、さらに大きな舞台を目指すようになった。レフェリーとしてパラリンピックに参加する目標だ。
「アジアでパラリンピックが開催されるんだから、ブラサカでもアジア人のレフェリーを輩出していこうと審判団のなかで話していました。そんな経緯で『チャンスがあるなら、パラリンピックに行きたい』と思うようになったんです」
アジア選手権では、日本代表の敗退で古くから知る選手たちがうなだれる姿を見た。「これだけがんばっても、パラリンピックに出られないのか…」と複雑な感情が湧き上がった。しかし、レフェリーとしてアジア選手権に参加している井口に、落胆している余裕はない。日本代表が進出しなかったことで巡ってきた決勝の舞台を裁き、井口はその役割を全うした。
そして2008年。井口は北京パラリンピックの審判員として招へいされた。3年以上にわたる経験と信頼が評価されたのだ。ブラサカの日本人関係者として初めてパラリンピックのピッチに立った。
「今まで誰も経験していない場所に立つのはワクワクしました。重圧よりも、楽しかったですね」
当時、大躍進で話題をさらった中国戦の主審も行った。試合後、クレームを入れられることもなく、監督たちから握手を求められたことを覚えているという。ノリがよく、仲間意識の強いレフェリー仲間のおかげもあって充実した大会期間を過ごした。
「最高峰のブラサカを肌で感じました。日本のブラサカ界が目指していたパラリンピックに自分が行ったわけですが、その地を踏んだからこそ、日本の選手たちにはパラリンピックに出場して最高峰を味わってほしい思いが強くなりましたね」
2008年に開催された北京パラリンピックでの一枚。言語も文化も違う国からレフェリーが集まり、共に大会を駆け抜ける達成感が醍醐味だ
その後、2016年にリオパラリンピックのレフェリーを担当した後は、完全に裏方に回り国内事業を推し進めてきた。パラスポーツを支える役目は約20年前と比べて知られるようになり、東京パラリンピックには4人の日本人レフェリーが大会に参加した。この流れが途切れることなく、パラリンピックに“日本代表”が立ち続けることをパイオニアは願っている。
Photo : Hiroyuki Minami , Kenji Iguchi